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 卯月 の イヤシロチ

あわら温泉「芸妓(げいぎ)」

あわら温泉の賑わいよ再び、との願い

About me


あわら温泉は開湯百三十年の歴史である。

が、隣の山代・山中の千三百年のそれには比べるべくもない。

彼の地ではその長い年月の中で幾つもの伝説が生まれ、それらの史跡が今に残っている。

山中には鶴仙渓があり山中塗がある。

山代には九谷焼がある。

さて福井あわら温泉。

明治時代の農業用灌漑工事の折に偶然温泉が田んぼの真ん中に湧きでたのが開湯の由来だ。

湧出地は元より湿地帯で周辺は稲田のために風光明媚な観光スポットが近辺にあるわけではない。

そのためにそれぞれの旅館が各々工夫を凝らした。

京都から庭師を招いて美しい和風庭園を造る。

大工に風雅な部屋を設えさせる。

料理も酒も地元や近隣から飛び切りの美味を調達できた。

加えて三国の北前船貿易も当時は隆盛を誇っていた。

関西からも程よい距離でもあることから「関西の奥座敷」と呼ばれ、京都歌舞伎座の興行があると東京の役者さん達は舞台の前日などは芦原温泉まで足を延ばしてあわらのお湯に身を温めたという。

こんにちのベテランの芦原芸妓さんの中にはそういうエピソードを実際体験した方々が多いそうだ。

バブル期には京阪神からの団体客で予約帳簿が真っ黒に埋まったという。

そしてそのお座敷に華を添えたのが芸者衆であった。

関東では芸者、関西では芸妓(げいぎ)と呼ぶ。

かつて芦原芸妓と言えば、舞踊、唄、三味線太鼓などの芸の格調の高さで全国にその名を轟かせていたものだ。

お座敷や舞台がない日は稽古に励む。

芸能の見事さはここにある。

しかし北前船貿易は鉄道輸送に代わって三国・芦原の賑わいは大きく陰った。

さらにバブルもはじけて客筋は個人や家族客が中心となる。

当然ながら芸妓を上げての宴席も激減した。

今日の温泉客は芸妓の遊び方を知らないのである。

それが何か途方も無い金銭を必要とするとか、遊び方も相当世慣れた風流人の世界のように思われていることもあろう。

さらに、昨今はくだけた雰囲気で座を盛り上げるコンパニオンがあちこちの宴席を席巻して、今や芸妓のお座敷は絶滅しかかっているような状況だ。

すでに述べたように、あわら温泉のホテルや旅館の外にはこれといって見るべきものがないゆえに、宿泊客をその館内で十分楽しめるように旅館側はあらゆる工夫を凝らした。

つまり、芦原温泉のホテル・旅館は<完結型>なのである。

チェックインからチェックアウトまで外に出る必要がない。

内部に必要十分なものがすべてある。

だがこれは功罪相半ばする。

普通温泉地を訪ねると、浴衣にはんてんを着た客たちが三々五々、下駄の音も軽やかに路地を楽しそうに散歩する姿がある。

あれは眺めて、また実際歩いて実にいいものだ。

土産物屋やまんじゅう屋をひやかしたり覗いたり。

一方、あわらには外に何も無いから散策のしようがない。

温泉街に人通りが無くがらんとした風景はどうにももの寂しいのだ。

どうしたらあわら温泉に、また温泉街に活気を呼び戻せるか。

ところが、この窮状に立ち上がった芸妓がいる。

糸扇家まどか。

長く地方(じかた)の芸妓としてあわら温泉のお座敷を持ってきた。

「手をこまねいていても、このままでは芦原芸妓は消滅してしまう。問題が複雑なだけに誰も立ち上がらない。ならば、当事者の自分が立つしかないのです。」

だが、まどかさんには悲壮感などはない。

元気一杯、とにかく明るいのだ。

「旅館さんは素晴らしいです。でもその良さは泊まるなりして中に入ってみなければわからないのです。」

完結型の宿泊システムから抜け出たプロジェクトを打ち上げて、お客を旅館の外に呼び出さなければならない。

アイデアのヒントは大体いつも足元にあるものである。

あわら温泉のもう一つの財産である芸妓の芸能を使ったらどうだろう。

お座敷で芸妓を見たことのない日本人が大半だ。

では芸妓を見てもらおう。

間近で見て、また言葉を交わして、親しんでもらおう。

舞や唄を見て聴いてもらおう。

この意図からワンコインイベント「芦原芸妓 in セントピアあわら」が始まった。

あわら温泉内に建つ総湯「セントピあわら」館内で、舞踊と謡いが催されるのだ。

その優雅さに目を奪われる客たち。

忘れていた日本の伝統芸能に触れられて、何かとても暖かいものが心の底にすとんと落ちる、そんな感慨だ。

「今のままでいい、なんて言っていたらこの先には芸妓消滅の未来です。日本の伝統芸能の消滅です。」

コンパニオン遊びも気軽でいいが、芸妓のお座敷の花代(費用)はコンパニオンと何ら変わらないのだ。

それでいて、謡いや舞の披露の後、芸妓さんに美酒のお酌までしていただける。

おしゃべりも楽しめる。

そういう酔いたるや、もう舞い上がる心地である。

検番に電話して気軽に問い合わせたらいい。

まどかさんのお嬢さん、ひさ乃さんも18歳で舞妓としてデビューした。

そののち、芸妓に襟替え。

襟替えとは、舞妓の赤襟が芸妓になると白襟になることをいう。

ただいま親子芸妓として活躍中だ。

「芸妓としてもっともっと芸を磨いていきたいです。」と28歳のひさ乃さんの目は涼しい。

「心からのおもてなし。これが芦原芸妓そのものです。」と、まどかさん。

芦原芸妓とその伝統芸能のために、あわら温泉の魅力の一つであり続けるために情熱を注ぎます、と言うまどかさんとひさ乃さん親子芸妓に、

「あわら温泉は良いよ~。温泉も料理も良いよ。それに、芸者さんの本物、お座敷で楽しかったよ。」

そんな声がたくさんのお客さんから聞こえて来る日はそう遠くないと見た。

まどかさん、秘めたるアイデアはまだまだあるそうだ。

その実現が楽しみである。

舞は糸扇家ひさ乃。三味線は糸扇家まどか。芦原芸妓として、親子で日本伝統芸能を伝承する

ひさ乃は、あわら温泉において実に38年ぶりとなる舞妓としてデビューを果たした。18歳の時である

プロたる芸妓としての生き方というのは、まさしくもてなしの心そのものだ。あわら温泉の未来、芦原芸妓の未来をお二人は熱く願っている

あわら温泉旅館「べにや」

本物のもてなしが味わえる風雅な老舗和風旅館

About me


「べにや」はあわら温泉開湯とともに創業した芦原温泉随一の老舗旅館である。

玄関正面に太い椎の大木が静かに堂々と立ち客を迎える。

この木は昭和31年に起こった芦原の大火の後、隣村の金津から当時すでに樹齢二百年のものを、大火からの復興を祈念して移植された。

「べにや」初代奥村藤五郎は「べにや」開業以前は三国で北前船の廻船問屋を営んでいた。

化粧用の紅粉(べにこ)の商いである。旅館「べにや」の名称はこれにちなんでいる。

明治維新以降、西欧の近代文明が急速に日本になだれ込むにつれ、当時の日本は廻船の水上輸送から鉄道の陸上輸送へと転換しつつある時代であった。

藤五郎は廻船交易業の先細りを敏感に感じ取っていたのだろう。

 明治16年芦原に温泉が湧き出るや藤五郎は翌17年に廻船業から大胆に業態転換、芦原に旅館「べにや」を創設した。

花街の隆盛にやや陰りが出始めていた三国から腕利きの料理人を引き連れての開業であった。

 芦原温泉は広大で平坦な坂井平野の中央にある。

元々福井越前の穀倉地帯であったから延々と農地が広がり、温泉の近隣周辺には取り立てて愛でる景観地も名所旧跡も無い。

それ故に、宿泊客の目を楽しませようと、京都の庭職人に乞うて旅館の中庭に雅趣あふれる和風庭園をしつらえた。

和室から縁側に出て庭を見やると、キビタキやオオルリが庭のどこからか、美しいさえずりを静謐の空気を振るわせてくる。

時折微風に木々の葉があおられて微かな音を打ち鳴らす。

 喧噪の都会から逃れてきた客にはもうこれだけで有り余る贅沢である。

心安まるため息をほうっと吐いている自分が気持ちいい。

福井芦原といえば素材の素晴らしい料理が何よりの楽しみである。

坂井平野の、さらに奥越の大野勝山と、それはみずみずしい野菜がふんだんに採れる。

隣の三国からは活きの良い魚介類が豊富に水揚げされる。

加えて、福井の水は奥越の山に降った雨水が地下に浸み込みそれが湧水としてわき出る「百年水」だ。

ミネラルをバランス良く含む中軟水は調理に最適である。

これらを以て調理された美味はあわらに泊まる客への最高のもてなしの一つだと言えよう。

 部屋数24室。

「べにや」は創業以来小規模旅館を徹底して貫いてきた。

それはお客様が何を求めて「べにや」に来るか、またそのお客様に「べにや」が何を提供できるかを常に自らに問いかけ見つめてきた結果だという。

 部屋はどれもとても趣味の良い美しい和室だ。平成天皇が皇太子の時に来福された際、宿泊先に「べにや」を選ばれた。それが大層お気に召されその後もう一度。

さらには秋篠宮殿下、常陸宮両殿下、高松宮妃殿下ほかのご皇族方がこぞって「べにや」を指名された。

今その理由が分かる。

いわゆる最高のもてなしを受けたいとする客に、最高のもてなしをしたいとする「べにや」にとって24室というのは最善の規模なのだと私なりに感じ入った。

 余談であるが、「つるつる言葉」というのがある。

 過剰な使用のためにいささか摩耗気味の言葉のことである。

「絆」と並んで「おもてなし」などもこれに当たるのでは無いか。

便利に使われすぎて意味も実体もすり減ってしまう。

ところが、「べにや」女将の奥村智代さんの言葉を聞いて、「べにや」の「おもてなし」にはさすが魂が入っていると思った。

「べにや」はお客様といかに絶妙の距離でコミュニケートできるかということにスタッフが心を砕いているという。

それには「べにや」スタッフがあわらや福井に誇りと愛情を抱き食材や旅館サービス全体により深い知識を持てる具体的な動きを日々重ねていく努力をしていかなければならない。

それが果たせて初めて客の心に届くコミュニケーションができるのではないか、と女将は言う。

日本全国津々浦々に名湯がある。

だから、良い温泉だけではお客様にあえて「あわら温泉」を選んではもらえない。

たまさかの癒やしの旅に数ある温泉地からあわら温泉を選び、さらにあえて「べにや」を選んでもらえるには、本物の「おもてなし」を尽くすしかない、と。

そこから「べにやスタイル」が生まれ出た。

 「べにや」には「お部屋係」というスタッフがいる。

10名で全員女性だ。当然ながらそれぞれに個性がある。

だからお客様の意向をさりげなく聞き、それに相応しいスタッフを付けるのだという。

リピーター客に対しては前回と同じ「お客様係」が担当する。

それによって、二度、三度と繰り返し「べにや」に泊まる客と気持ちを通わせて行く。

そうすると客もきさくに要望を伝えやすい雰囲気が醸成されてくる。

このようなきめ細やかさは小規模旅館「べにや」ならではの成せるわざだ。

リピーター率が40%を超えているということもここにあるのだということが腑に落ちた。

現代のこの渇いた時代にあって私たちが非日常の旅に求めるもの、それはしっとりと潤いのある暖かな心の通い合いである。

「べにや」の本物のおもてなしはお得感がある、と判断してお客は次もあわら温泉「べにや」を、となるのだろう。

本物の「おもてなし」を味わい楽しむためにぜひとも泊まりたい宿である。

追記

2018年5月、火災によりべにやが全焼してしまいました。只今再建にむけて準備をしています。それまで閉館となります。再開をお待ちください。

手入れが行き届いた庭園には四季折々の花が咲く

手入れが行き届いた庭園には四季折々の花が咲く

大浴場。べにやは4本の源泉を持つ

大浴場。べにやは4本の源泉を持つ

べにや創業にあたり、移植したという樹齢250年の椎ノ木。べにやの歴史を見守ってきた銘木である

夏 ふ く む す び 歩 き

皐月 の イヤシロチ

~「 恐竜 博物館」 と イタリア 料理店「 ペスカトーレ」


水無月 の イヤシロチ

~ 「ラーバンの森・おけら牧場」と フランス料理店「ジャルダン」