戦後、織田信長の忠臣であった丹羽長秀が越前の領主となると、長秀は娘婿の青山宗勝に丸岡城に住まわせ、暫くは平穏が続いた。が、関ヶ原の戦い(1600)で、運命のさいころはまたまた大きくごろりと転がって行く。秀吉の忠臣の青山家は当然のことながら豊臣勢の西軍につくも、敗れて徳川家康の軍門に下ることとなる。家康は秀吉に養子に出していた次男の結城秀康を戻し、越前に入封(土地を与えられその領土に入ること)させた。秀康は福井城に入り、家臣の今村盛次を丸岡城の主としたのである。ところが、この丸岡という小さな領土にこの後福井越前を二分するような大騒動、「越前騒動」(1612)が起こるのである。端緒は些細な蟻の一穴であった。江戸初期、丸岡にあるとある小さな村から、ある娘が別の村の男の元へ嫁いだ。その嫁ぎ先の家は赤貧を洗う暮らしぶりである。止む無く佐渡の金山へ出稼ぎに行った夫であるが、行ったまま音信はぷつりと途切れてしまった。「あん人、死んでしまったのやろか、もう一人でここにいても仕方がない。」そう思った娘は実家に戻り、まもなく別の男と再婚をした。ところが、ある日前夫がひょっこりと佐渡から戻ってきたのだ。「わしの嫁はどこにおる?」と怒鳴りこんできたその男は嫁が再婚していたことを知るとさらに激高した。「再婚のことなんぞ、わしゃあ聞いておらんぞ。」と男は暴れまくった。しばらくしてその女の新しい夫が殺害された。それを聞き及んだその村の領主、久世但馬守は前夫の村の領主、岡部自休の差金だと勘ぐる。「あやつめ、自休。この落とし前はきっちり付けさせてもらうぞ。」久世は家臣に命じて前夫を斬り殺した。それを知った自休は、自領の農民を殺されたとしてお上に訴え出たのである。ところが、権力の根っこは下から上へと繋がっているのが常だ。福井越前藩祖の秀康が死去するとその息子忠直はわずか13歳で後を継いだ。その家臣で筆頭家老である本多富正と丸岡城主今村盛次、これが両名とも反りが合わない。その今村の耳に家臣から情報が寄せられた。「親方様、家老本多様は丸岡の久世と親しくしていますぞ。」今村は、「本多め、あの百姓殺害事件を利用して丸岡に乗り込んでくるかもしれぬ。そしてわしを改易させるつもりだろう。そうはいかぬ。」岡部自休の直訴は、福井藩の家老本多と今村が評定することとなった。他の家老も全員大広間に揃っている。ここで本多は久世に同情的な意見を述べた。これを隣に座って聞いていた今村はますます本多をいぶかった。他の家老たちも本多派、今村派に二分され、議論は長期化しまとまらない。ついには江戸の家康のところにまで上がっていかざるを得なくなったのだ。江戸城の家康の前に、本多、今村の両越前藩家老が召喚された。最初は本多が詳細な事実を開陳した。次に今村の番である。今村はひげをたくわえたがっしりとした大男で、その声は低く朗々と広間に響き渡った。弁も立つ。理路整然と展開する話術は見事であった。本多富正の額にはうっすらと脂汗がにじみ出ていた。広間に同席していた幕府の諸家老たちに「大勢は今村の勝ちで決したな」とひそひそと小声が漏れていた。その今村の弁論が終わるや、家老本多正信は富正の形勢不利を察知した。正信と富正は親しい血縁ではないが同じ本多家の系譜にある。家康をずうっと支えてきた筆頭家老、正信は、「本多富正殿、ご持参の書面をお出しなされい。」と低い声で促した。その書面には、今村丸岡領が幼い秀忠を丸め込んで丸岡に必要以上の金を出させている、秀康治世下で配流(左遷)となっていた今村一族の者が無許可で舞い戻っている等、今村の家老としての過失がるる述べられていた。家康はそれを聞き、「今村、どういうことじゃ。述べよ。」と言うと今村は、「それは忠直殿がまだご幼少である故に。」とつい口を滑らせた。宙にあった家康の視線がすうっと自分の眼に集まり、射抜いたのを今村は見逃さなかった。言った瞬間今村は「ちっ、しくじった。」と心で呟いた。忠臣たるもの、主を立てこそすれ責任転嫁などもってのほかである。わずかな一言で運命はいとも容易くひっくり返る好例だ。拠って、家康の命により、今村は家老免職のうえ磐城平(現福島県)鳥居家へ預かりとして事実上の左遷。今村配下の越前家老達も一切が全国散り散りに左遷された。岡部自休も能登に島流しとなった。一方富正派誰もお咎め無しである。家康は、富正を管理不行き届きで厳しく叱責するものの、「だが、その忠義は誠にあっぱれである。今後も主君、忠直をますます盛り立て仕えよ。」と賞賛激励した。福井県坂井平野の東端の小高い丘に立つ丸岡城。現存する天守閣としては日本で最古の建築様式を持つ平山城である。観光バスから降り立った婦人たちが談笑しながら天守閣への石段を登って行く。早春の日差しはまだ弱いが、小枝に吹く芽はまもなくの桜吹雪の準備に余念がないと見え、つややかに陽に照っている。
平山城の特徴であろう、天守閣へ至る石段はとても急傾斜だ
威風堂々たる石垣も往時を忍ばせる
夕日を背に陰る丸岡城全景
福井県を貫いて流れる九頭竜川は古来より水運の要であった。その河口に位置する三国という町は、水運による物流が平水路用船舶から海上航路にも耐えうる大型船へと変遷していくに従い物流規模の増大によって江戸中期から昭和の初めまで、北前船貿易によって大いに繁栄したのである。 九頭竜川河口の東岸沿いには廻船問屋の美しい蔵屋敷が軒を連ねた。当然ながら北前船貿易の隆盛は料亭、お茶屋の増加を促し、それに伴っての芸妓、その置屋、貸し座敷など花街の発展へと波紋を広げて行くこととなる。 福井市街部の古式ゆかしい建造物が、先の大戦の空襲と戦後まもない昭和23年の福井震災とで完膚なきまでに破壊され尽くしたのに対し、三国の幸運さはその両者から免れられたことだ。 おかげで、江戸から明治、大正とそれぞれの時代の息吹が吹き込まれた趣きのある建物は三国町内のいたるところに見てとる事ができる。 「魚志楼」はそのようなかつての花街の中にあって賑わった芸妓の置屋であった。初代松崎四郎平が明治初期に創業。四郎の名から志楼が取られたという。置屋の座敷を一棟立て増す毎に渡り廊下で繋ぐ。全体は、かぐら建てと呼ばれる様式の建築物だ。現在は建物全体が有形文化財の指定を国より受けている。有形文化財は建物の外観の現況保存の義務を負うが、内部は改装自由である。しかし女将の松崎真理子さんは、「いくらでも綺麗に改装できるんですけど、昔そのままの物を置いておきたいんです」と、使い込まれた建物や道具の古さにかえって一層魅力や愛着を感じるという。 なるほど店内には置屋を偲ばせる三味線や和箪笥が渡り廊下に置かれている。座敷の隅の火鉢や鉄瓶も昔懐かしいフォルムだ。 離れの座敷は明治6年(1873)の建造である。座敷の金屏風や襖絵は往時の華やかさを彷彿とさせる。 北前船貿易が陸上鉄道輸送に切り替わり衰退していくにつれて三国は賑わいと花街の艶やかさを次第に失って行った。時代の趨勢である。 「魚志楼」もその例外ではなく、長らく続けてきた生業は無念にも閉じられることとなった。それ以降はたまの宴席に貸し座敷ほどの営業で店を開けることはあったものの、それも年に数回である。傷みも目立ち出した建物を前に若き日の女将は、夫婦二人三脚で「魚志楼」を再興しようと決意した。アンティークな素晴らしく美しい食器も陽の目を観ることができる。いろいろな人にお目にかかれる。何よりこの館が大好きだ。自身の身体の奥底から聞こえてくるそれだけの声を聞けば踏み出すことの決断には十分な勇気だった。エンジニアとして勤め人をしていた夫は退職し包丁を握った。以来四半世紀を共に歩んできた夫だったが2011年に急死。次は自分が跡を継ぐと京都の料亭で修業を重ねていた長男の陽平氏が帰郷、店主となった。京料理の技法で三国を初めとする地元福井の食材を供したいと陽平氏。三十二歳とこれから伸びしろ十分の若き料理人である。精確な調理技術に裏打ちされ洗練された料理を以て、新「魚志楼」となったようだ。カウンターで三国湊の魚と共に福井地酒の純米酒を楽しむのもいい。また座敷での会席で見事な襖絵を愛でつつ持ち込ませてもらったワインに酔いしれるのも嬉しかろう。アンティークな古き店という器に盛られた雅と若さの味わい。この魅力を得てこれからの「魚志楼」がとても楽しみになってきた。
かぐら建てという町屋造り。国指定の有形文化財だ
店奥の離れ座敷へと至る渡り廊下。かつての置屋ならではの趣のあるアンティークがいくつも置かれている
離れ座敷。140年前の明治6年に建てられた
西の蔵座敷。襖絵が見事である
カウンターでは「魚志楼」ファンのお客さんが店主や女将と談笑していた
~ 三国 町 歩き と 三国 の 酒饅頭
~「越前松島」 と日本三大珍味の一つ「越前塩雲丹」