福井県坂井市三国町。湊町として奈良時代からの歴史を持つこの小さな町は、特に江戸から明治にかけて栄えた北前船交易で賑わった。その名残を留める建物が町内のあちこちに在る。三国町は三国神社から九頭竜川河口へかけて九頭竜川沿いに一枚の帯を広げたように町並みが続くことから「帯のまち」と呼ばれた。この「帯のまち」を歩くと隆盛を誇った町の賑わいの光と、水運衰退と運命を共にした今日の町の影のコントラストがとても印象的に見えてくる。それでも町を再興しようとする若者たちの熱気が最近湧き上がり出した三国は今とてもおもしろい。
夕暮れ時の「カフェ たぶの木」。町屋風の建物の二階
樹齢100年を越える椨(たぶ)の木。かつては造船に欠かせない樹木であった。樹皮がでこぼこなので庭木としてはあまり人気がないという
カフェタブの木の向かいにある「旧森田銀行」
三国の町家を店舗にする森安蕎麦。自然で素朴な味わいが常連さんに人気だ
三国の海で採れた汐雲丹のみを「越前雲丹」として販売する「波屋」。福井の地酒など福井の美味が揃う。
三国独特の町家。二階部分が出っ張るこの建築様式を「かぐら建て」という
昭和を代表する作家・高見順の生家
大木道具店跡。現在は閉鎖されている
三国祭りの山車が収納されている「山車蔵」
九頭竜川河口の東岸はかつては北前船交易による廻船問屋がずらりと立ち並んでいた。それぞれの問屋の蔵には廻船が直接横付けされ船荷が上げ下ろしされたものだ。しかしその隆盛も昭和の初期に鉄道などの陸上輸送に奪われ衰退していくにつれて、暮らしとともに三国も町並みを変えていくことになる。 それでも、往時を忍ばせる問屋の建物のいくつかは街の遺産として今日までも受け継がれてきた。 川沿いの大通りを一本中に入った通りを歩いてみると、町屋作りの建物が何軒も以前のままに保存されている。博物館として公開されているのが「旧岸名家町家」だ。 入り口をくぐるとボランティアガイドの男性がちょうど前のグループの案内を終えたところだった。 岸名家は材木商を営む新保屋岸名惣助が興した豪商でその末裔が代々居住してきた。かぐら建てという三国独特の建築様式が個性的な堂々とした構えだ。木製の吊り戸で開閉する蔀戸(しとみと)が興味深い。 入り口の右脇には商店の帳場があり、ここで商談がなされたのだろう。 床には水を撒くと淡い緑に変わる福井産の笏谷石が敷き詰められている。京都の町屋と同じくうなぎの寝床のように奥に細長く伸びる長屋である。 左手は台所の板の間。右は畳敷の居間と座敷がある。 商屋だけに実に質素な佇まいだが落ち着いた簡素の美がなんとも良い。明治初期は三国とその周辺の地域は石川県に属していた。だから臙脂(えんじ)色塗りの紅壁は加賀前田の殿様の色だと聞いて納得がいった。 商屋の主たちの挿話をいくつか。今日ならば、事業で成功した人たちはやれ銀座だやれヒルズだというところで散財するのだろうが、昔の金持ちは違った。書画骨董の美術、俳句和歌の文学、歌舞伎の古典芸術の支援など、芸術文化の造詣を深めることをステータスとしたのだ。 岸名家初代は松尾芭蕉の俳門にあって、芭蕉の高弟であった支考から文台を授かり「日和山吟社」を結成。初代の宗匠として三国の俳諧を隆盛に導いたのである。これによって三国は福井県でも珍しい俳諧が盛んな地となった。彼らは家の内風呂には入らず銭湯に通ったという。銭湯の大風呂で情報を交換したりして商いに繋げた。だから、土間奥の風呂桶はとても小さいのだそうだ。最後のエピソード。毎年5月20日に開催される「三国祭」という豪勢な祭りがある。数メートルもの高さの武者人形を載せた山車を町内引き回す。現在は数台の山車だが、かつて三国の最盛期には一軒の商屋がひとつの山車を出したという。こういうところで町のにぎわいに還元した彼らの心意気が忍ばれるものだ。三国に百人以上もいたという三国芸妓たちの三味線や踊りも今は消えて、ひっそりと静かな風情である。しかし、歴史を保存し町のにぎわいへつなげようとする三国の人たちの熱い思いは通りのそこかしこにみなぎっていて頼もしい。
三国祭りの豪勢さはこの山車である
大型の人形山車の他に、神輿もそれぞれの町内から担がれる
福井の大きな祭りには大型の人形山車が引かれるものが多い。敦賀祭と三国祭はその代表格である。三国祭りは、北陸三大祭の一つである。
これらの貿易を担っていたのが廻船問屋であった。福井藩にあっては、親藩大名松平家の福井城が日本海から20数キロ内陸にあったため、この廻船貿易の窓口は九頭竜川河口にある三国を窓口にして発展した。その三国の廻船問屋の豪商の筆頭が森田家である。森田家は元々福井藩との繋がりが薄かったため御用金という重い上納金負担を逃れることができた。これにより、他の内田家が御用金負担で衰退していくのを尻目に幕末期には三国随一の豪商に伸長していくのである。 明治になると物流手段は難破のリスクのある海上輸送から鉄道による陸上輸送にとって代わり廻船貿易は徐々に衰退していった。 「これからは蒸気機関車の鉄道輸送の時代だ。海が時化て船が出せない嵐の時でも機関車は走る。難破の心配もない。北前船の事業にもはや未来はない。」 三国湊に係留されている船を眺めながら森田三郎右衛門は一人つぶやいた。全盛期には16艘の和船を所有する豪商森田は1883年に海運業から撤退、兼業していた醤油醸造業の傍らで銀行金融業という新しい業態に転換する準備を着々と図っていた。 1894年、念願の「森田銀行」を創業すると、折りしも敦賀から福井・小松まで鉄道が延伸整備される機に乗じて、さらに鉄道貨物を扱う倉庫運送業に進出し、森田家は三国随一の資産家として成功を収めたのである。森田は銀行本店ビルを1920年に落成した。横浜町会所(現・横浜市開港記念会館)や長崎県庁を手がけた山田七五郎が設計を担当した。 天井の美しい漆喰模様や、茶系のタイル貼りの外観は西洋の古典主義的デザインで、細部にわたって拘った建築美に対する高い意識がうかがえる。アメリカ発世界恐慌が日本にも波及すると国は各地の銀行の統合・合併によるリスク分散を指導した。これによって森田銀行は福井銀行と合併、三十余年という短い社会生命を閉じた。 復元工事を経てこんにちでは、国指定登録有形文化財として無料で一般公開されている。
カウンター、床、あるいは二階のキャットウォークの手すりは美しいくるみ材などの木製
壁にしつらえた重厚な金庫が往時を物語ります
二階にある会議室。天井の照明、窓枠など、大正時代のアールデコの雰囲気が横溢しています
婚礼のある家の軒先には饅頭を数百個も詰めてきた「ニナイ」と呼ばれる朱塗りの箱が積み置かれている。紋付袴を着た人が二階の窓から、あるいは屋根瓦に乗って、庭に集まった人に向けて饅頭を撒く。おかみさんたちは割烹着のすそを持ち広げ、子供たちは野球帽で、その饅頭を受け止める。ニナイは一つや二つではなかったから、相当の数の饅頭を撒いたのだろう。ずいぶんと豪勢な結婚式が行われたものである。さて、その三国饅頭というのは酒饅頭である。もち米と糀(こうじ)を使って甘酒を作る。それを熟成させ。酒の香りの強く出たところに小麦粉を加えて種を作る。その種をさらに発酵熟成させてから練り餡を包んで蒸す。 この製法は作業工程が複雑なために昨今の大半の和菓子店では酒粕を用いた酒饅頭が主流だ。だが、饅頭皮の風味も味わいもまったく別物で、やはり糀からの甘酒が醸し出す酒饅頭とは比べ物にならない。 それほどに本格製法の三国「酒饅頭」の美味しさは格別で、福井で酒饅頭といえば「三国饅頭」を指すほどその名は知れ渡っている。 三国饅頭の起源は、諸説あるようだが「北前船」に由来するようである。 遠く江戸時代、大阪と北海道を結んで瀬戸内海、日本海の港を経由して運行した北前船の寄港地であった福井・三国。日本各地の豊富な物資が三国に上がり、多くの豪商が繁栄し三国は大いに栄えた。 あるとき、海が時化(しけ)で舟が港に停泊せざるを得なかった折にその船頭が酒饅頭の製法を三国にもたらした。酒饅頭の甘酸っぱい芳香と皮のもちもちっとした食感が大評判となった。豪商たちはその慶事に五千とも一万ともいう酒饅頭を撒いて祝ったという。 全盛期には三国に25軒の酒饅頭製菓店があったそうだ。 現在は6店舗の酒饅頭屋がそれぞれ味わいの違う酒饅頭を製造販売している。道路向かいには「元祖・小山屋」がある。小山屋の酒まんじゅうも美味しい。 だが福井の地元では「西坂の酒まんじゅう」ファンが多い。 餡は濃く、皮のもっちりとした噛みごたえのある食感が個性的だからだろうか。その個性は説得力のある美味しさなのであろう。 すっかり左党になってしまった私だが「酒まんじゅう」だけは今でも好んで食べる。西坂か小山屋かは、お好みである。食べ比べも楽しい。 店先でまだほのかに温かみの残る酒饅頭を頬張れば、遠い昔、三国湊の荷役夫たちの威勢のいい掛け声が聞こえてくるようである。
滑らかで甘さ控えめの餡が美味しい
店内のショーケースにはどら焼きなどの和菓子も
町や風の外観
~「瀧谷寺(たきだんじ)」と 森の中のカフェ「風の扉」 >>
~ 大湊神社と朝倉義景の物語「雄島」と チーズ料理の名店「ベッキエッタ」 >>