福井三国町の崎地区辺りの海岸は「越前松島」と呼ばれている。奥州宮城の松島の美しさになぞらえての呼称だ。 大小さまざまな奇岩が海岸に横たわる。玄武岩質の安山岩が見事な柱状節理や板状節理を見せている。この地の岩礁は今から1200万年から1300万年前の火山活動によってできたものであるという。この年代は新生代新第三紀中新世にあたる。恐竜が絶滅してすでに5000万年が経っている。哺乳類が爆発的な進化を遂げ地球全土に拡散しつつあった頃で、まだ人類はオランウータンと分岐したあたりだ。溶岩が冷えてこの岩となり、さらにおよそ1000万年が経った頃、アフリカを出発した猿人は陸地伝いにこの東アジアにようやく到達した。ヒトがゴリラと分岐してもう400万年が経過している。だがまだまだ見かけは猿だ。この直後に始まる更新世という年代、ヒトは猿人から原人へと進化。200万年をかけてゆっくりと新環境順応を繰り返していく。固い骨や丸太の武器から、砕かれた鋭利な石器へと武器が変わる。この更新世の末期、今から7万年前に地球は氷に閉ざされた。氷河期だ。それまでにも地球はたびたび氷河期と間氷期を繰り返してきた。この氷河期は最終氷河期と呼ばれ、6万年もの長きにわたって地上の生物は寒さに震え飢えに苦しみ抜いた。その冬の時代が終わるのは今から1万年前のこと。 アフリカを出発した最古の人類の父祖は数万年をかけて徒歩で南米の最南端にたどり着く。それに要した悠久の時間は人間が寒暖乾湿などありとあらゆる地球の環境に適合すべく進化するのに十分な時間だ。 海岸の岩べりに設けられた遊歩道を進み石段を上がると洞窟がある。海食活動によってできた自然洞窟だ。奥行き5メートルほどで、内部は大人が頭を垂れると歩けるほどの高さである。観音様が祀られている。昭和の初め、この洞窟内から人骨に交じって鹿角製の釣り針や土器などが出土した。それは縄文時代の横穴式住居であったことを物語る。真冬ともなれば零度近い冷たい烈風が唸りをあげて吹き込んでくるだろう。前万の昔の縄文人はどうやってその寒さに耐えたのだろうか。洞窟の奥で愛する者を抱いたのだろうか。時化の日には漁の銛(もり)を磨いていたのだろうか。獲物を下げて海から帰る男は洞の入り口で待つ可愛い幼子の頭を撫でたのだろうか。もしかしたら私の祖先はこの洞窟に住んでいたのかも知れない。崎の海岸。岩の見事な結晶。越前松島。本家の「松島」なんて冠を敢えてかぶせなくてもこの海岸は十分に美しい。
海面に転がる奇岩が美しい
観音洞と呼ばれる洞窟。自然の浸食でできた。この洞から出土した土器などは東京の国立博物館に展示してある
この入江の左側は「越前松島水族館」
汐雲丹は福井の夏の味覚であり福井の歳時記だ。汐雲丹とはバフンウニの卵巣の塩漬けである。越前海岸に点在する漁村や漁協ではそれぞれの規則を持って雲丹を大事に育てている。雲丹の採取期間は概ね、7月下旬から8月半ばまでである。正午の鐘の音とともに、あるいは笛の音が鋭く吹かれるとともに、海女たちが一斉に海に入り雲丹を採る。福井に暮らす人は、福井名産の汐雲丹が出回る頃になると、ああ夏が来たんだな、と実感する。かつて江戸時代、越前福井では塩雲丹(汐うに)は各浜の漁師たちの浜の年貢の一つとして作られ、旧福井藩に納められていた。また旧福井藩に納めた塩雲丹は、軍事用の備蓄食や各宮家・他藩への贈物としていた。徳川将軍家に献上されるさまざまな品々の中でも、「長崎奉行の持品のからすみ」、「 尾張公の持品のこのわた」そして「 越前公の持品の越前の雲丹(塩雲丹)」。この三品は美味である上、いずれも大量製造ができず入手が困難であったことにより、江戸時代より日本三大珍味と称されている。越前雲丹はだからとても高価である。しかし、その価値は十分ある。8月下旬から9月上旬にようやく越前雲丹の新物がで回り出す。
福井三国の磯浜で採れたムラサキウニ、バフンウニを加工している
越前うに。46グラム入りで\3000-。高級珍味である波屋では19グラム/\2000-からその場で詰めてくれる
福井・三国の美味しいものが何でもそろう
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